各界からの祝辞、提言

1994年(平成6年)6月26日、湘南ホテル(神奈川県藤沢市片瀬海岸)に於いて、我ら鎌倉高校サッカー部OB会の創部40周年を記念する「式典」及び「レセプション」が盛大に開催されました。この模様については別の項で写真など掲示するつもりでおります。このとき記念式典プログラムを兼ねて、「神奈川県立鎌倉高校サッカー部創部40周年記念誌」が発刊されています。この記念誌には、「お祝いの言葉」として、鎌倉市長、藤沢市長をはじめとして、各界からの鎌高サッカー部に対する熱い期待が込められています。また、歴代監督、OBからのサッカーへの情熱は、「40周年を迎えて」として掲載されています.この珠玉の提言は当日式典に参加された関係者の中に収めておくだけではあまりにもおしい、との考えからここに提示いたします。これらの言葉は、鎌倉高校サッカー部関係者だけでなく、全ての卒業生、生徒の皆さん、これから鎌高に入学する中学生、そして鎌高以外のスポーツ関係の皆様にも希望と勇気を与えてくれると信じてやみません。

平成6年当時の役職で表記させて頂いています
発刊のご挨拶・・・・・・・会長・・豊島亜彦

お祝いのことば

創部40周年を迎えて

監督・顧問

OB会

発刊のご挨拶

県立鎌倉高等学校サッカー部は、昭和29年創部以来本年創部40周年を迎える運びとなりました。創部より今日までの40年間、高校サッカーの県大会で優勝をはじめとして、数多くの好成績を残し、県代表として出場した春の関東大会、夏のインターハイ、秋の国体県代表(選抜選手)、そして正月の全国選手権大会と、最高全国ベスト16まで勝ち進むことが出来ました。これは監督をはじめとした本校サッカー部指導者の卓越した指導力と共に、その厳しい練習に打ち勝った現役部員の汗と涙の結果であると考えます。更に、本サッカー部の応援をしてくださった関係する皆様方の熱きご支援の賜物と深く感謝いたします。誠に僭越ながら、本誌上をもって深くお礼申しあげます。今回、創部40周年にあたり、サッカー部の過去の記録の保存と今後の発展、OB会の充実を考え、記念誌の発行と記念式典の開催を計画しましたところ,多くの方々のご協力を得ることが出来ました。誠にありがとうございました。私たちは、この温かいご協賛を礎としてサッカー部の発展の為、益々努力する所存でございます。

平成6年6月26日
神奈川県立鎌倉高等学校サッカー部OB会
会長豊島亜彦

祝辞・鎌倉市長・竹内謙様

鎌倉高等学校サッカー部が、創部40周年を迎えられましたことを心からお喜び申し上げます。貴サッカー部は昭和29年の創部以来、県大会における幾多の優勝をはじめ、インターハイや全国高校選手権で好成績をあげました。これは選手諸君はもとよりのこと、歴代監督やコーチ、家族、OBたちなど、多くの人々の和の賜のと深く敬意を表します。私も高校時代、サッカーの兄弟競技であるラグビー・フットボールに青春を燃焼しました。15人というもっとも多人数のスポーツを通じて培った和の精神は、私の血となって脈々と流れづけています。鎌倉市は、この豊かな歴史的風土と自然環境を次の世代に伝えていくために今年を環境元年と位置づけ、自然とともに生きる町づくりを進めることにしました。近年、ほころびの目立つ環境のディフェンダーになるのです。いうまでもなく、ディフェンダーは攻撃の起点でもあります。よりよい環境を守るためには,しっかりとした生活基盤整備の攻撃を仕掛けることが不可欠です。環境のディフェンダーを要めの攻撃型チームに育てあげたいと決意しております。鎌倉高等学校サッカー部の益々のご発展を祈念するとともに、皆さんがよき市民チームの一員ともなってくださいますことを期待して、お祝いの言葉といたします。

祝辞・藤沢市長・葉山峻様

神奈川県立鎌倉高校サッカー部が、創部40周年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。創部以来、神奈川の高校サッカー界では,湘南の雄として,常にトップクラスの実力を備え、昭和61年の全国高校選手権でのベスト16をはじめ、輝かしい戦績を残されてきたことに、深く敬意を申し上げます。またそのような実績のもとにあって、神奈川のサッカー一の普及と発展のため、高校はもとより少年、中学校、大学、社会人と部門は異なっても、多くの指導者を輩出されているのは、40年にわたる伝統とサッカー部OB会の団結とチームワークによるところが大きいものと思います。日本のサッカーは、念願のワールドカップ出場を惜しくも逃がしたものの、2年目を迎えたJリーグもますます人気が高まるなど、その裾野は大きく広がってきています。鎌高サッカー部からも、Jリーグで活躍する選手が誕生し、現役選手の新しい目標となっていることは、サッカーの技術力の向上と底辺の拡大に、重要な役割を果たしていくものと、期待しているところです。少年サッカーが盛んな藤沢からは,鎌高でサッカーをしたいという子どもたちも多いと聞いております。世界のスポーツ・サッカーは、技術のみならず、豊かなイマジネーション、自立心とチームワーク、勇気と判断力など、様々な要素が求められます。 40周年を契機に、鎌倉高校サッカー部が個性豊かなサッカーを目ざして、いっそうご活躍されることとともに、OB会のご発展と皆様のご健勝を心から祈念して、お祝いのことばといたします。

創部40周年に寄せて・神奈川県高体連サッカー部長・鈴木中様

神奈川県立鎌倉高校サッカー部が創立40周年を迎えられましたことを、心からお祝い申し上げます。本県では昭和48年度から「高校100校新設計画」を推進し高体連サッカー部も現在は2五0 校を越す大所帯となって来ました。鎌倉高校はそれ以前に20年間、基礎作りの苦労の時代があり、太田先生の努力が実り、その後数々の輝かしい成績を残し、全国高校総体・全国選手権大会、等々全国の檜舞台で活躍してまいりました。湘南地域のレベルの高い環境をバックに、歴代の校長先生はじめ、保護者の皆様方のご理解を得て、顧間の先生,選手、OBが一丸となって取り組まれた結果の賜物だと推察致します。「鎌高サッカー部」の一つのビジョンを神奈川県下、いま日本全国に知らしめた功績に対し、関係各位に感謝申し上げます。さて日本のサッカーも「Jリーグ」2年目を迎え、確かにレベルは上がって来ました。野球に追いつけ、追い越せと、日本経済の力で、素晴らしい外国人選手の技術で「サッカー人気は」オレオーレと舞い上がり、「サッカーくじ」が出来ると益々お客様は増すでしょう。そんな中で高校サッカーは目標を見失わない様に、どうすれば良いのかしっかりと見極めなければなりません。鎌倉高校サッカー部が、この創立40周年という意義深い年を契機として、更に輝かしい歴史を重ね、神奈川県高校サッカーのリーダーとして、益々発展する事を祈念して、お祝いの言葉とします。

甦れ!鎌高サッカー・神奈川県立鎌倉高等学校校長・・・・・・池田滋様

この度、鎌倉高校サッカー部が創部以来40年の記念すべき年を迎えられたことに、心から祝意を表します。鎌高サッカー部は過去において、輝かしい歴史を積み重ねてこられました。1979年・ 1983年の県総合体育大会(インターハイ予選)における優勝をはじめ県代表として3度の全国大会出場はその最たるものです。又、関東大会等の出場は枚挙に暇がありません。更に今、人気のJリーグのチームの中にも卒業生が存在するという県下での有数の高校サッカーチームであります。これらは歴代の指導者、関係各位、生徒諸君の努力の賜物でありましょう。さて、近年の成績は如何?と間うに、過去の業績に比して残念ながらいささか物足らない、と思うのは私だけではないでしょう。これは本校への入学難も一つの因かもしれません。中学校で経験を積んだ生徒がなかなか入学できないというのは確かです。それに、最近の生徒は以前よりも部活動離れの傾向にあるのも一つの因かもしれません。世は、いわゆるサッカーブームに沸きかえっています。幼年時から志す層が増えています。今年の新入生も入部者が増加していると聞いています。今こそ、昔の栄光を甦らせる絶好のチャンスです。良き指導者,素質ある生徒を得てなお一層精進されて、再び県サッカー界のみならず、全国サッカー界に「鎌高あり」と名を馳せて欲しいものです。創部40周年を迎えた記念すべきこの時、歴史と伝統に恥じない強豪チームの復活を祈念してお祝いの言葉と致します。

創部40周年記念に寄せて・同窓会「潮会]会長・吉川晴彦様

創部40周年を迎えるを聞いて遠い青春の日の出来事を思い出します。尤も私ばサッカー部員ではなかったが。創部以来の、青春と友情とスポーツ精神は,輝かしいOB諸兄の足跡と共に、脈々と続き、歴史とを伝統を守り育ててきた現役部員の活躍と努力に心からのお祝いを申し上げます。もともと、スポーツとは心、技、体の鍛練であり、進んで申せば、人生に必要な貢献、和、団結等にまで、その本質を堀り下げることができるかと思います。スポーツからは多くのことを学ぷことが出来ます。そして、その最たるものが、青春の高校スポーツでありましょう。プロにないスポーツ精神の純粋性と、その時々の汗と涙の結晶と、正にスポーツの華といえます。見る者に夢と、希望と、感動を与えてくれます。時に涙する人が居りますが、その思いは、人間性の成長に結び付き、原点を観ることにより生命の再生を促してくれます。今や、高校スポーツの頂点に立っのが、サッカーであります。Jリーグの得点王も立派ですが,高校サッカーの、身近な人々を感動させる魅力はたまりません。アシスト。言葉もよいが、行為もよい。貢献であります。勝利者も得点王もすぱらしいが、アシスト出来る選手が、人間が最高だ。高校時代に培った、サッカーを通じての友情と精神で社会に貢献して下さい。鎌高サッカー部の益々の活躍と、OB諸兄のご支援、ご指導あらんことを願って、創部40周年のご挨拶といたします。

お祝いのことば・鎌倉市サッカー協会会長・松尾英洋様

県立鎌倉高校サッカー部の創部40周年を心からお祝い申し上げます。この40年間、県下の名門校として、数々の実績を残してこられ、部の発展のためご尽力されました代表者をはじめ指導の先生方、ご父兄、後援者の皆様に対しまして、深く敬意を表する次第です。昨年度よりサッカーもプロ化されJリーグが発足し、サッカーに大変人気が出て参りましたことに嬉しく思っております。鎌高出身の選手がJリーグで活躍されておりますし、これからも数多くの選手がプロを目指していられるでしょう。出身の選手が試合に出場しているというだけで、その試合に大変興味を持ちますし、勝ってほしいと願うものです。私も学生時代、又OB戦を鎌高グランドで試合をしたことが懐かしく思い出されますし、サッカーを通じ多くの人達に接する機会を得、指導を受け、また貴重な体験をしました。鎌倉市サッカー協会は現在、少年委員会16チーム、社会人委員会20チームがリーグ戦他大会を開催しておりますが、一番悩みの種はグランドを確保することです。その点では鎌高には立派なグランドが在り環境に恵まれておりますので、皆様の活躍に期待しております。おわりに、サッカー部のますますの発展と皆様のご健勝を祈念しまして、私のお祝いのことぱといたします。

お祝いのことば・藤沢市サッカー協会会長・番場定孝様

神奈川県立鎌倉高等学校サッカー部創部40周年おめでとうございます。心からお祝い申し上げ、今回記念式典を挙行されます本校OBの皆様はじめ関係者のご熱意とご努力に敬意を表します。また県サッカー発展のために永年のご貢献を頂載致しましたことに厚く感謝申し上げます。昭和29年創部、30年連盟加盟ということですから、私が高校でサッカーを始めたときが昭和31年で、当時江の電で鎌倉へ行き何度かゲームしたのを憶えております。その後鎌高サッカー部は順調に発展され常に好成績をあげるすばらしいチームになりました。その足跡を見ても、高校選手権出場2回、インターハイ3回,関東大会出場4回などと、昭和61年には全国高校選手権でベスト16を達成されるなど本当にすばらしい歴史が展開されて来ました。このことは単に鎌高サッカーだけのことでなく湘南地区全体の高校サッカーのレベルアップに寄与されたのであります。県下にはサッカー実力校が各地に点在しますが各種大会で湘南学区の高校がいつも最後まで健斗するのであります。そしてその頃ですが小学生サッカーから中高はもとより実業団や一般のクラブチームに至るまで鎌高サッカーOBが監督や指導者に多く就かれていたと思います。こうして色々な意味で鎌高サッカー40年は大きく評価されるのであります。今後も現役の諸兄はがんばって好成績を挙げていただくこと確信しております。同時にOBの皆様のサッカーへのご尽力、これからも賜りたくお願い申し上げご挨拶と致します。

鎌校サッカー部誕生の頃の想い出・初代監督.鈴木和孝

私が鎌高に赴任したのは、御成町の校舎から現在地に移転した翌年の昭和27年でした。当時の新校舎は山林に囲まれ、校庭は畑のままでした。暫くして整地されたグランドも一 雨降れぱすぐに、ぬかるみという具合でしたが広さと眺望には恵まれ、生徒達は体育や部活動に喜んで汗を流していたのが印象的です。ところで私も小学校の頃からフットボール部に入って球を蹴っていましたので、鎌高にきた時、ぜひサッカー部を創りたいと考え、城所校長にお願いしたところ「予算がないからすぐには無理だが同好会は作ってよい」とのことで早速ゴールポストを購入して下さいました。最初は肝心の選手が揃わず柔道部などからメンバーを集めてルールから教えるようなありさまでしたが、そのうち中学でサッカーをしていた選手も次第に増え、部として出発してから40年。その後のサッカー部の活躍や、 Jリーグの盛況と創部当時を考え併わせると私にとって感概もまた、ひとしおです。

第2代監督.川崎道夫

そうですか、あれからもう40年が経ったのですか。鈴木先生が創部され,太田先生という素晴らしい顧問兼名コーチが来られるまでの単なる顧間を私はやって来たに過ぎませんでした。現在、体育センター、教育センターが建っている所が昔の善行サッカーグランドで、よく試合があり、上原君達の頃でしたかね、人数が足らなくて、水泳部の生徒を頼んだりしましたね。合宿も大変でした。女生徒に炊事を頼んだり、給食を頼んだり、そうだ、学校の運動場が使えない年があって、自衛隊(武山)の兵舎を借りた事もありましたね。あの頃は工科学校や朝鮮高校の生徒との試合もしましたね、やがて学校のプレハブ食堂を利用して合宿するようになり、相工大、鎌高、新らしい善行のグランドを使っての試合が多くなり、勝てなかった湘南高校にも勝てるようになり、県大会でも上位にいけるようになりましたね。やがて初の関東大会出場。本当に多くの思い出を有難う。

第3代監督.太田寿昭

『結果を求めず過程を大事に』をモットーに、個性豊かな生徒達の特徴を見つけながらのチーム作り、くる日もくる日も走れ蹴れ、走れ蹴れの厳しい練習、終了の笛、その場にバッタリ倒れ泣き出す者、星空に両手を突き上げ奇声をあげる者,無言のまま引きあげる者、砂浜でのダッシュ,鬼の居ぬ問に楽をしようとして汗ビッショリかき、歩いて足跡をつけたが、後悔先に立たずにバレた者、授業中になかった姿、練習では元気一杯のサッカー狂、灯を求め校舎の中をさまよう練習の虫達、練習をサボる者なし、卒業した今、母校のグラウンドに立ち、何を感じることだろう在職17年の長い間ご支援賜りましたことを感謝いたします。最後になりましたが、創部 40周年のお祝いを申しあげるとともに、OB会の益々のご発展とサッカー部のさらなるご活躍を期待します。

第4代監督.高木亮

「育つ力、育てる力、育む力」毎日、直向きにボールを追い続ける努力が何事も可能だとの確信する姿を生み、「どうしても」の気力と気迫の目標意識によって高い集中力が発揮され、常に向上しようと育つ力になる。情熱の固まりとも思える菅原,宮代両コーチ、毎年合宿に駆け付けてくれるOB達の献身的指導、授業や学校生活を通じて育てて下さる鎌高の先生方。そして、子供達の成長を願う愛情溢れるご家族の理解。グランド改修の際大変お世話になった近隣の小中学校を始めとする地域の人々の暖かな育み。創部40周年にあたり、多くの方々に深く感謝申し上げるとともに、更なる目標に挑戦し続けたいと思っております。

鎌高サッカー部の伝統・OB会 会長 豊島亜彦

昭和32年4月、鎌高に入学すると、中学時代の先輩から柔道部かサッカー部に入れ、と云われ、その場でサッカー部入部が決定しました。当時は11人揃えるのがやっとで、普段の練習は7~8人だったのを覚えています。翌年、新入生が7人位入部し、翌々年は、10人位の入部があり、私の3年の時は20人位になりました。その間、相当に厳しい練習を続けた結果、県大会でベスト8、準決勝進出と厳しい練習の成果が実ってきました。卒業後も現役の練習ぷりを見に母校を訪づれました。そこで同じように厳しい練習をしましたが、関東大会県代表、新人戦準優勝という結果に、後輩たちの日々の努力に大いに喜びました。サッカーはもとより、スポーツは頭で考えた事を身体が実行しなければなりません。それには強くたくましい身体にする必要があります。身体は一気に強くはなりません。毎日毎日が大切です。計画をしっかりとたて毎日の練習が無駄にならないように,部員一人一人が日々努力することです。

創部40周年を迎えて・OB会名誉会長加藤元治

このたび、わたくしたちの母校、県立鎌倉高等学校サッカー部の創部40周年を迎えることができ、諸先輩および関係者の皆様方に心からお礼を申しあげます。わたくしが、県鎌に入学しましたのが昭和29年、当時すでに諸先輩たちが、サッカー同好会として活動していました。そして、昭和30年(1955年)第10回国民体育大会神奈川県大会が開催された年に、県内17校目として高体連に加盟登録をいたしました。その後、幾多の試練をのりきって、後輩OB諸氏が数々の立派な実績を積み重ねて、“ 県鎌サッカー部"の伝統を作ってくれて現在に至っています。現役の諸君も、今日からより一層の努力をして、創部50周年を迎えるまでに、新しい伝統と歴史をつくるスタートをきってくれるよう期待しております。

負けても青春・汗して青春・OB会副会長吉村昭三

青く澄みきった湘南の海、富士山を眺め、江ノ電が走る…鎌高。ボクにとって、青春はこの母校であり、サッカーである。・入部草々、いきなり試合(たしか9名)、先輩の名前と顔が一致せず、5対0で負けてもロング(先生)からよくやったと言われ。抽せん会へ行けば、対戦校から喜ばれる。・初の合宿一一先輩の方が人数が多い日も。宿は竜口寺、急な階段一一キツイの一言。・豊島・福原両先輩の献身的な努カ(特訓&特訓)により、レベルアップ。年に何回強化合宿・練習があったか、小雨の中での七里ケ浜でのダッシュ。ベスト8に残った時は感激。「3年の時は第3位。」“今日への第一歩"と勝手に誇りを持っている。・卒業後は、水曜と土曜日はコーチ役??(“大学が東京なのに、他にやることないのか"と後輩の声があったとか) ・今や、サッカーの名門校。後輩諸君、ぜひ鎌高らしい心と技を磨いて欲しい。

逆光の中の男たち・S34年卒平牧龍郎

鎌校でのサッカーとの出合は窓の下からの「このクラスに平牧はいるか。」のひと声から始まった。窓の下にはバラバラなトレーニングウェアを着た先輩達が上を見上げ「にらんで」いた。窓から顔を出し返事をすると「明日から練習に来い」と言われ思わず「ハイ」と返事をしてしまった自分。その一言が3年問の涙の歴史の幕開けになるともしらずに。翌日グランドに出ると、なんとはるかかなたのグランドの南の端、逆光の中で男達のボールを蹴る姿は美くしくもあった。しかしであるそこはなんと豚舎のとなりで豚の声と臭いで現実とのギャップを感じたものである。春にはクローバーの褥にだかれ、夏には潮風に包まれ秋には裏山の紅葉と、自然につつまれた中で、数少い勝利の記憶が何年たっても心地良い青春の思い出となっている。きっと諸君の心の中にもあのグランドの南端の逆光の中に友情と涙と青春の思い出が凝縮していた事を今も記憶されていることと思う。

30年前もサッカーブーム・S41年卒浜野正明

入学の年は、18連敗のスタートだった。回りからの冷やかし、失笑にもこりず,笑顔で出かけて行く明かるいチームだった。今から30年前は、第1次サッカーブームの中の高校時代だった一東京オリンピック(S 39)日本リーグ開幕(S40)サッカーマガジン創刊(S41)一しかし、現実はキック&ダッシュのなごりがあり、夏の合宿では、やさしい(?)先輩によく走らされた。千本ノック並みの蹴り返しもあり、体力、スタミナの勝負だった。誇れる事は、3年の夏、初の県外大会となる関東大会出場を果したことで、女子マネージャーも一丸となり臨んだ結果だ。浦和西高との泥中戦は、話題に事欠かない。ただ、夏休み前半をサッカーに費やし、後の人生を狂わせた人も出たようで、少々責任を感じている。我々同期10名は、年1回の集まりを続けているが、いっときの苦しみが支えとなっている。

「ペナルティキック」・S48年卒小柴健司

今でもはっきりとあのシーンがよみがえってくる……。ついに同点にするチャンスがやってきた。PKだ。蹴るのは誰だ?ベンチを見る。私に行けと指示している。気持ちは不安で揺れ動く。「蹴りたくない」「絶対に決めなければ」「はずしたらどうしよう」さまざまな事が頭の中を次々にかけめぐる。ボールセット、キーパーがやけに大きく見える。「どっちに蹴ろうか?」左足で蹴ったボールはゆっくりとキーパーの腕の中に吸い込まれていった。関東大会1I回戦、東京代表私立城北高校に2-0で完敗する。あのシーンは決して頭から離れない。サッカーを続けてきたが、あれほど緊張した事は後にも先にも記憶がない。ただしこの経験がその後の私のサッカーを支えてくれた出来事であった事に間違いない。現在、教員としてサッカー指導しているが当時のメンバーで良く代表になれたと思う。あのチームをまとめた太田先生の偉大さを感じるとともに、あらためてご指導いただいた先生に感謝したい。

インターハイに出場して・S55年卒神原勇人

15年前の8月,気温35℃を超える暑さの滋賀県で、大分工業高校にO対3と惨敗し私達のインターハイは幕を閉じました。何もかもが初めての経験の中、自分達は一生懸命戦ったと思ってもなぜかくやしさが残る試合でした。ただ、素晴らしいチームメイトと晴れ舞台に立てたことは、私の今までの人生の中でも最良の時間だったと思っています。当時は,負けたことばかり心に残っていましたが,何年か経ち後輩達がまた全国大会に出場するようになり,15年前のインターハイが鎌高サッカー部の新しいぺ一ジを開き、後輩達の活躍のステップになったのではないかという喜びと、その一員に自分がいたことへの誇りを強く感じるようになりました。現役選手達には、私達が出来なかった新しい鎌高サッカー部の歴史を築き上げてくれることを期待しています。

全国大会の思い出・S59年卒平出善男

私にとって「全国大会」という言葉は大変に大きな目標であり,夢でした。そして全国大会に出場することは憧れていた先輩方を越えることであり、鎌高サッカー部にとって新しい歴史を作ることでもありました。名古屋で行われたインターハイでは自分たちのどこにそんな力があったのかと思うほどの試合で3回戦まで進出しました。選手権大会では出場を決めてから1回戦で敗退するまで取材・抽選会・国立競技場での開会式・大声援などすべてが夢の中のようでした。あれから10年もの月日が過ぎ、Jリーグなどでサッカーの位置付けも少しづつ変わってきた現在ですが、私にとって「全国大会」という言葉は今でも特別な響きを持った特別なものであるように思います。

全国大会の想い出・S61卒菅原圭也

今振り返ってみると、全国大会までの道程は、遠い道程だった。優勝までには、藤沢西、相工大、旭といった強豪を破らねばならなかった。私が経験した最初の全国大会は、石川県で開催された高校総体である。県内の代表決定戦では、前年選手権出場の藤沢西をPK合戦の末、勝利を手にした。遠征気分だったせいか、移動中、宿舎でとはしゃいでいた。裏をかえせば、緊張していたせいかもしれない。緊張をやわらげるため、監督にいわれ、試合直前サブグランドの土手で校歌を歌わされた。その時の風景、一面の日本海、すばらしい青空が広がっていた。試合の相手は、奈良の大淀。結果は完敗だった。宿舎で本吉がいった「俺らは全国では無名なんだ」という言葉が印象的だった。夜中に宿舎を抜け出し、田んぼの真中で蛍を見ながらビールを飲み次の目標へ再出発を誓った。 2度目の全国大会は、正月の高校選手権である。県内の代表決定戦は旭、これもまたP K合戦の末の勝利だった。新聞,雑誌と高校総体とは違った盛り上がりをみて、またも私ははしゃぎ過ぎて、試合1週間前に体研で監督より一発くらった思い出がある。今回は前回とは違い、全国大会での勝利が目標であった。一回戦岡山の作陽、右ウイング田中の一生に一度というすばらしいセンターリングを林がゴールして勝利。二回戦福岡の東海大第五、堀のすばらしいゴールで勝利。三回戦相手は優勝した清水商、ジェフの江尻、エスパルスの青島、真田とそうそうたるメンバーが揃っていた。また、前日の試合で本吉は額を6ハリ縫っての出場。摂氏零度と最悪のコンディションだった。シュート22本、まさにキーパー練習のような試合だった。これが私の高校最後の試合、しかし負けたくやしさよりやりとげた充実感で胸が一杯だった。後童の全国大会での活躍を信じ、三ツ沢のグランドをあとにした。 2回もの全国大会の出場は,堀、本吉という2人のJリーガーがいれば当然だったかもしれないが、3年間の間には、この文面で語りつくせないドラマがあった。部員一丸となり、努カした結果がもたらした奇跡といっても過言ではない。最後に、家庭を犠牲にして私たちを全国大会へと導いてくれた太田監督、高木先生がいればこそおきた奇跡であると付け加えたい。